ある日ネットで知り、志士の会に最初に参加させて頂きました。 
女性である私を 笹原さんは気を使ってくれて、わざわざ席まで来られて、本当によく参加
してくれました と 喜んで頂いて、嬉しかった思い出があります。 
きっと笹原さんは 家に帰っても、奥様や子供さん達に 優しく 家庭サービスをされる
ようなよい旦那さんで、、
(みんなが うーーん、そうかな? うううん、、、笑笑、、)
笹原さんが、天国見守ってくれていると
思いますので 頑張って下さい。

先程挨拶をした、、、の家内です。忙しい主人に代わってお通夜に行かせてもらいました。
びっくりしたのは 周りの多くの人たちが(会社を退職させられた人たちも含めて)
笹原さんの「暖かい人柄を」異口同音で話されていたのが印象的でした。 
私は皆様より6歳若いのですが、、、
(お前、いい奥さんもらったな!)
(どうも すみません、いい女房で)

これからも皆様から 色々と教えて頂いて、ついてゆきたいと思います。

(ううーん やっぱりいい奥さんを貰ったな、)

マラソンの飲み仲間が代表でひとり飛び入り(6人来たかったのだけど 
入らないので 代表ひとりで参加)

東京マラソンに落選した時に、湘南マラソンに参加しないかとさそわえれたのが最初。
ホノルルマラソンにも笹原さんは走られて、、日本で 一緒に走って楽しかった、
また一緒に走りたかったがこんな事になって残念です。、、、

実のところ、誰もが湿った空気になるのではないかと心配していた。 実際、ご家族をお迎えするまで、
雰囲気は何処かしら沈痛で、いつもは早く来たの者から飲み始めるのだが、この時は誰もご家族が
到着するまで飲まなかった。

カウンターには 笹原君の遺影と花が飾られていた。

                


そして、波留美会の 永久名誉幹事に決まった笹原君に代わり、新幹事の 多田君の挨拶で始まった。
この頃から 少し雰囲気が和み始めた。

笹原君を偲ぶ 波留美会

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献杯が終わると、酒、食事を楽しみながら、それぞれの挨拶に移ったが、この頃からいつもの調子が
戻ってきて冗談も交えながら、笹原君の思い出を大いに語り、ご家族の方々も「知らなかった外での
笹原の実態」に大いに楽しまれた様子だった。

以下は いつもの写真中心の報告と違って、、笹原君を偲ぶ会の雰囲気を皆さんに知ってもらう為に
録音した皆のコメントの中から、笹原君に関する部分だけを抜き出し、文章に起こしました。全くの
アトランダムに掲載します。(カッコ)の中は 相変わらずの野次の部分です。
波留美会に参加してない笹原君の同級生が、この偲ぶ会を体感してもらう為に、以下文章が中心
ですが雰囲気を楽しんで下さい。
尚、コメントと近くにある写真とは全く関係が無いのでそのつもりで読んで下さい。

ここからは ご家族のお話

長男 一樹君

皆様の暖かい話を頂いて 35年間生きて来ましたけど、まったく知らない父を知ることが
できました。
家の父は 威厳があって、怖い父だった。 実は私のトラウマと言うか、、
私らが小さい時、弟を鼻血が出るまで叩いてたのをみた事がありました。、、、それほど
家では怖かった、切れたら怖い人間だったような気がする。お袋が何かで親父を怒らせたら、
親父は
10M位の木刀でお袋を殴ろうとしていた、(10Mは大げさですが)
それほど気性の荒い人間だと言うのか、でも皆さんの中では
人に優しくて、、なんとなく
びっくりしました。
でも 受験失敗や 学校を変えたときなど、あれほど学歴にプライドが高い人間が何も
言わずに
好きにさせてくれた。 
「お前が決めた事は お前がしっかれやれ!」と見守ってくれた。そんな優しい一面も
ありました。

今まで迷惑をかけた分恩返しとおもって、親父が好きなゴルフを一緒にやろうと、私も
練習しました。
一昨年初めて 大宮国際でラウンドして、結果は散々でしたが、始めて
親父と何かを一緒にやるということで、非常に嬉しかった。
昨年 闘病中に 自分の一時退院することが出来て、自分が住んでいる新潟にいいゴルフ
場があるよと言ったら、本当にお袋と来てくれて、3人でいっしょにゴルフをしました。
それが最後のラウンドになりましたが、、、、
その時、親父が初めて喜んだ姿を見ました。、親父が
バーディーを取った時、お互い 
ハイタッチなんかして瞬間、、、本当は親父と触れ合うと言うのは恥ずかしい気がする
ものだが、、、、そのとき自然と親父と触れ合えた気がしました。

そして一緒にお風呂に入った。小さい時以来で 抗がん剤で髪も抜け落ちた状態でしたが、
大人になってからの、裸の付き合いが不思議な感覚がしました。
もう一度ゴルフをしたかった。 

葬儀の時、会社の方々から 「お前の親父は一体何者だ! この参列者の人の多さは!」
と言われ、(実際には 600人)、 ここでも親父の偉大さを実感した。
終わった後、弟と「ちょっと親父の事を舐めてたね」と反省しました。
こうやって皆さんと楽しく飲んでいられるのは、寂しい事が嫌いな親父も喜んでくれて
いると思います。これからも父の背中を思い返し、追いかけて、しっかりやってゆきたい
と思います。宜しくお願いします。

(笹原が さすが俺の息子だ! と喜んでいるよ!)

(俺も息子がいるが こんな事言ってくれるだろうか?)


 (ジーーンとくるな!)                     


次男 元樹

今度結婚します(10月)。 式に出るのが楽しみで療養も頑張っていたのですが、、
実は亡くなる前日も父に頑張れよ と言ったら、うん 式でのスピーチが楽しみだ
と言ってくれてた。涙が止まらなかった、、、、

療養中も 「俺には水虫があるが、俺は水虫菌でやられたのかな などと看護婦さん
と冗談を言っていた。

(中外製薬には水虫薬はないのか! 笑い)

さっき兄も言いましたが、やはり 私にとっても父は怖い存在だった、家でも寡黙、
しゃべっても仕事の話、でも一時単身赴任の時など、久しぶりに家に帰ってきたらお袋と
晩酌を楽しんだりしていたけど、、、
でも話すと本当にしつこいくらい薀蓄(うんちく)がうるさくて、うるさくて、(大笑い!)

父がどういう人生を歩んできたかを改めて 葬式の人数の多さや 皆様のおはなしから
知ることができました。家では 「全くつまらない」人だと思ってきたし、兄とも 
「親父は何が楽しみで生きてきたのかな、」とまで言っていたのですが、こうやって
全く違う父の姿を知り、外では結構楽しんでたんだなと知ることができて、
本当に嬉しく思いました。兄ともども宜しくお願いします。


(本当にいい息子たちだ!)
(何で死んだんだ あいつは、、、、)


(マスター: はいはい ちょっと待って! これは笹ちゃんが自分で漬けた梅酒です!)
(これでもう一度献杯しよう!)

(ママ:まだ飲んだらいかんばい、あんた何しよっとね、献杯まで待たんね!)
(飲み物が 飲み物だけに うめー!  全員 シラー、、、、)


                    閑話休題          

奥様

家の主人は 息子たちが言ったように グターとしているような、息子たちは怖いと言って
ましたが、私にとっては 怖いと言うのではなく、何というか マイペース、自分の用が
あったら家族は後回し。
(笑い)

考えたら短い人生かも知れないが、主人は 「仕事では海外に行ったことがあるが 
プライベートではないが、お母さんは 自分であちこち行って楽しんでるよね」と言って
これから二人でプライベートで海外に行く計画をしていたのですが、、、
しかし、今日皆さんのお話をお聞きして、主人は案外、外では私以上に楽しんでいたのだな
という事がよく分かりました。(笑い、笑)私たちに分からない 主人の人柄などを知ることが
出来ました。主人の口癖ですが、「人とちゃんと付き合っていれば、裏切られることはないし、
ちゃんとしてあげれば それは何時か自分にも返ってくる」以前はそんなことを言われても 
私は心に沁みてくることは無かったのですが、、、(笑い)

でも本当に人との付き合いを大事にしていたのだなと思われるのは、色々なところで、何十年
ぶりに人と会う事が 多々あった事です。 そういう人たちも 主人が それ以前はその時だけ
で流していれば、主人も気づかないだろうし、相手も気づかなかったかもしれない。
でも 付き合いを大事にしていた主人だからこそ、主人も気づき、相手も何十年経っても
気づいてくれる。 また そこからその人との新しい付き合いが始まる。そんな人でした。
自分のスタイルを貫き通し、人を幸せにして、それで自分も幸せを頂いた 
短いながらも濃い人生だった思います。

これからの夢を語っていたのが、家で水耕栽培をやる事でした。
それが出来なかったのが 残念です。
(作ると言っていた車庫は出来たのですか?) 車庫は壊しちゃったんですが、、、、

{長男一樹君:それがですね、またひと悶着ありまして、父が頑張って作ったですけど、
台風で崩れてしまって、そのホームセンターなどで何万もかけて買ってきた材料を親父は取って
おいたのですよ。それをお袋が近所の方へ無償であげてしまって 親父がそれに激怒して、
またそこで夫婦喧嘩が始まるわけですよ、、(笑い) (また 10Mの木刀か?)

それが なんと亡くなる1週間前だったんですけど、、、、(大笑い)実際 親父は闘病日誌
を書いてたのですが、それも毎日。最後が 5月3日で途切れているのですが、その前のほうに
ケンカしてお袋が帰って行ったと 書いてありました。笑い笑い

主人は自分の思いというか、仕事も色々な事に 深いのですね。鎌倉工場に行った時 
一人一人と面談して、苦労して、自分で納得して、やってたようです。
{入江さん:笹原さんしか出来なかった!}

短い人生で悔いは残ったと思うのですが、こんな楽しい会を開いて頂いて 
本当にありがとうございました。

(奥さん 色々誤解が解けて良かったですね! 笑い、笑い!)
今頃笹原君はくしゃみして苦笑いしているよ、かっこよかった笹原君の違う面をいきなり
暴露されて、、、)


(質問!笹原と奥さんのなれ初めは?)
(そういう興味本位の質問は、この会場では控えて頂きます)
(バカ、株主総会ではないぞ!)(笑い)

私が勤めた会社の先輩女性のご主人の(日本航空でベルギーに赴任)奥様への要求が
ダンスが出来るようになってくれという事で、習いに行くのだけど一人では心細いので一緒
に行ってくれといってダンスを習い始めた。(もう 野次ばっかり!!!!) 
そこに主人と たまりさんと来ていた。それが出会いです。

(じゃ それ Shall We Dance?) (笑い)
(えつ チークダンス?) (それは お前の奥さんだろう!)(笑い) 
(質問!なんで笹原が良かったのですか?) 
(息子さん: それは 聞きたくないな、、、笑)

それは 秘密にして置きます。
ありがとうございました。


などなど、長くなりましたが、本当に楽しい 偲ぶ会になりました。

これで我々 波留美会のメンバーも 楽しく笹原君を天国に送れたと思います。

再び合掌。

マスター : 悲しくてしゃべれない、 こんな顔してるけど涙もろい、、、、
あるお客が 25年前、寄りちゃん(寄川)それから 城ちゃん(城野)、笹ちゃん、
儀一ちゃん、を連れてきたのが最初。 店が狭いのに 5人と言って 10人くらい連れて
きて 入らないよと言っても、立っててもいいと言って来てくれた。 それがきっかけ。
、、、、、悲しくて何も言えない 
(結構言ってるよ!(笑い!)

ママ : 笹ちゃんに対する思い出は 悲しくて なんとも言えない。何というか 
お兄さんと言うか
(私が年上だけど、、、(笑い) そういう存在だった。 
笹原さんは マカノリと高菜しか食べなかった、、それで何時間ンも粘って、
(笑い)
もう本当に悲しい。

入江さんの話 :元中外製薬です。いつも会議室に颯爽と入っていく姿がかっこよかった。
 笹原さんが私を最初に飲みに連れて来てくれたのが この波留美でした。
 高校の同窓会をやっていると聞いて、時々ご一緒させて頂いた。

 会社で色々会って、まいっている時に 「あまり働き過ぎるな」と気にかけて頂いたのを
 今でも覚えてます。ゴルフに行っても カートに乗らずにいつも走り回っていた。

 鎌倉工場を閉める時 誰がやると言った時 笹原さんしかない、、、と誰もが言っていた。
 みんなは、仕事がなくなるのに、最後まで笹原さんを慕っていた、そして 病気で治療も
 やりながら最後までやり遂げられた、、、会社のトップは分かっているか!

 
(そうだ!そうだ!)
 笹原さんには 三つの思いを教えられた。 患者さんへの思い、製薬への思い、
 そして仲間への思い。

私は高校時代は笹原さんとは交流は無かったのですが、この波留美会だけでなく、鎌倉や、
浅草の散策などを企画され 本当によく準備して頂いて楽しかった、嬉しかった。 

晴美会でホノルルマラソンの話を達成感を自慢げに話していたのが印象的、 
お前ホノルルは英語やろうが、おまえ英語しゃべれたとや と聞いたら 
ABCぐらい分かるったい、、、

お通夜の人の多さにびっくりした、(600人)、笹原君の人柄の表れだと思う。
工場閉鎖で笹原君に引導を渡された人たちも全員来ていたらしい、彼は辞めさせられた人たち
にも慕われていたのだな。すごいよ。

笹原は 人を集める能力がある、何百人の工場の人たちの退職を話しながら、工場閉鎖を
進めるのは大変だったと思う。一人一人と真摯に向き合って遂行して言ったのだろう、彼の
ことだから、、、、、


笹原とは 小学校や中学校で一緒やったかどうかうろ覚えで、高校は一緒やったのは間違
いないのですが、、、
(ばか、当たり前やろうが、、、笑笑)、、、

彼は九大現役で入るくらい非常に頭がよかった。一緒に勉強していて彼の使ってる参考書
を使えば同じように頭が良くなると思い買った記憶がある。 
頭よくなったんか?結果はダメだったけど、、、(笑い)

最初息子さんからメールを受け取った時、「あれ! 笹原のお父さんが亡くなったんだな」
思ったくらい信じられなかった。。」

会社なんかで話をすると、福岡の高校が こんなに何度も同窓会や ホームページを更新
するような事は聞いたことがない。しょっちゅうやっている、同窓会の後 翌朝もう
ホームページに自分のよぱっらた姿が載っている、、、これだけ東京であつまる、、
稀有なこと。すばらしい事だと思う。これも笹原のお蔭だと思う。
これからはもっと頻度が上がりそうな気配もあって、
(お前が飲みたいだけだろう!笑い)

笹原君が居た3年7組は 人柄が非常によいひとたちと、口うるさくてどうしようもない
人たちと極端でした、もちろん
笹原君は非常に人柄が良い方、
(お前は どっちやったんか?) 良い方にきまっとろうが、、、

郡民はいややね 筑紫郡に行くまでに 西鉄電車何駅乗らんといかんとね、、

彼はいつも英語の辞書を持っていたのには驚いた(さっき ABCとかいっていたぞ!)

次男を指して、「笹原の若い時によく似てるね、笹原のあの当時を思い出すよ」

さっきグロンサンの話ばっかりしておったけど、俺もオレンジカードもって来てたぞ! 
(俺 もらっとらん!、俺も、俺も!)

奥さんと息子さんたちが来ていただいたという事は本当にうれしい、
これからも、機会があればずっと参加して下さい。笹原も喜ぶと思う

笹原君は 会社の色々な抗ガン剤を5回くらい試されて、回復を願って
頑張っていたのですが、本当に残念でなりません。、、、
私も最近前立腺がんで
手術して、ヨウ素の粒を75個も埋め込んで
(お前放射能振り撒いているとや?)、、、今日はドクターストップで 
笹原と一緒にここで飲むことが出来なくて残念です。

先程挨拶した、、の妻です、学校では当然女の私は、男女クラスだったのでうが、笹原さん
とはあまり交流がなかった。私の主人はこの年で腹が出てないのが唯一の自慢でしたが、
笹原さんに、この波留美会でお会いして、それを上回る人にであって、こんなダンディーな
人もいるんだと思いま
した。
(おーい!奥さんに見放されているぞ! 笑い笑い)
こんな形で無くなられた笹原さんは、これからは奥様と楽しく過ごされるつもりだったので
しょうが、このように、しっかりした息子さん達がいらっしゃるので、安心です。
お父様を大事にしたように これからもお母様を大事に支えてあげて下さい。
息子さん達:プレッシャーだよな これは!)

波留美会は、実は最初は今福岡にいる寄川君が、こんな良い店(ママが佐賀弁で言葉が
分からんばってん)を見つけ、城野と私と笹原3人も来るようになって、その時から
波留美との付き合いになるけど 今日お見えになっている中外製薬の木股さんや入江さん
ともここでお会いして飲んでいたという歴史があり、寄川君と笹原君がいなければこの
波留美会はなかった、、、

笹原は現役で九大に入ったけど、僕らの時代は 東大の入試がなかった年で、、、
(それで俺の人生が狂ったったい!) (笑い) (嘘付け!お前は東大なんかかんけいなかろうもん)
(どっと笑い)

笹原が結婚してからも、一緒にゴルフに行ったりして、その帰りに笹原が「 俺の家に
来い!」と言って城野とお宅にお邪魔したことがあったんです、
(奥さん うーーーん?) 
(奥さん覚えとらんみたいだ、奥さんは良い男しか覚えないんだよ! 笑い、笑)

奥さんその節は色々ご迷惑かけました 
(奥さん おぼえとらんて!)(笑い)

私は市民なんですけど、雑餉隈という市の本当のはずれに居て、(雑餉は市に入るとか?)
笹原とは色々な話をしたのを思い出す。ここで言うとまだ早いかな、、笹原とも人生の機微
と言うか、男女関係と言うか、「変な女に手を出すなよとか、、、」色々話したけど、、、

息子さんに後で話した方が良いかな (笑い!)(息子さん達:俺も聞いてみたい!)

笹原がいつも中外製薬のグロンサンをみんなに差し入れしてくれて、それも6本ずつ、、、
「なんと気前の良い奴だと」思ったが、彼が
来なくなってから、楽しみにしていた
グロンサンが手に入らなくなって、、、、
(会社の同僚:これから持ってこなくちゃいけ
ないみたいだ、、、笑)
 皆が一緒に天国に行ったら 笹原が向うでもまたグロンサン
配ってくれるのではないかと楽しみにしております。

 皆で献杯 !

今日は 皆で大いに楽しく飲んで、笹原君を無事天国へ送ろうではないか、、、、、、、

笹原とは中学も一緒だと思ったら 小学校も一緒だったって今日気が付いた。
笹原から この晴海会に誘われたのが始まりで、、
、 
「次男元基君を指差して} 
よう似てるね、若い頃の笹原そっくり、、、 

我々のころは、差別と言うのがあって、 佐賀ナンバーのソアラが、福岡ナンバーの
シビックには道を譲らねばならなかった、
(どっと 笑い!)筑紫が丘にも差別が
あって、所謂、市民と郡民、、私は出来ない子の郡民、笹原は出来る子の市民、
笹原と私ではこーんなに大きな差があった、私が笹原にしゃべったら、周りから 
「おまえなにしゃべっととや?」と言われた。 その彼が私を波留美会に誘ってくれて

(その割には態度がでかいじゃないか)(どっと笑い) そして今が有ります


笹原は、なんと言うか、人が周りに集まってくると言うか、人との繋がりを本当に大事にして
いたので笹原の事を悪く言う奴を見たこと無い。何年も会ってないのに、突然街の中で
ばったり会ったりして、そしてそこからまた新しい付き合いが始まる、そんな男だった。

次男 元基君

長男 一樹君

奥様 律子様

6月21日の金曜日に、さる5月6日に急逝された笹原君のご家族 律子様(奥様)、
一樹君(長男)、元基君(次男)のお3人と、笹原君の会社の同僚 木股宏章様、
入江正子様 お二人をお迎えして、笹原君を偲ぶ波留美会が開催されました。

木股さんの話 :こんな楽しい会 有難うございます。

 葬儀に閉めた工場の人たちが全員来ていた。 皆 笹原さんが最後の工場長で良かったと
 言っていた。 笹原さんはマラソンをやって、、、、
(その腹見るとマラソンはやって
 
ないみたいだな、、、笑) 次参加する時にクロモントかグロンサンを持ってこなくては
 いけない雰囲気で、すごいプレッシャーを感じる。
 もう一度笹原さんと飲みたがったが、
 こんなことになって、、、私もこんなに飲んでいるので、そのうちあちらに行って笹原
 さんと飲めるかも知れない、、、
(笑い)

えーと、最初ですが、今日は紙に書いてきました、読まさせて頂きます 
題して、波留美会にて笹原和夫君を想う。  えーーーと???

(見えないんだろう!  老眼鏡いるか? 笑い)
えーーと? まだお酒が入ってなかもん。
(笑い!)

ーーー九州大学に現役で入られて、某大手製薬会社に入られ、(某は要らないだろう! 
NHKじゃないんだぞ!笑い!)鎌倉工場の閉鎖にご尽力され、本当にご苦労が
あったと思います。
貴方はまだまだやりたい事があって無念だとおもいます、、、、今日は楽しく飲んで
彼を無事天国へ送ってやりたいと思います。私らもいずれ天国に行くことになりますが

(お前が天国に行けると思うとうとか? 笑い!)、、、
あちらでも、また一緒に飲みたいと
思います。

そして、手術を終えたばかりの田中義一君の発声で 
献杯をした。