2019年  筑志会のページ
 

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                  筑志会 2019 忘年会


乱高下した気温も、今や寒波らしきものが訪れた関東地区。恒例の筑志会忘年会が、幹事多田君の奮闘
で、25名ものメンバーが参集し、神田 花羽(みちば)で 12月1日(日)の昼12時から開かれた。
幹事の交渉で、3時間という設定であったが、「昼間から飲む、話す」と言う例年にない進行に、なんと
終わってみると4時間という楽しい会であった。今回は長時間、飲めや歌えや、いやいや 飲
めや語れや
で、何を皆がしゃべったのか記録するのが困難。そこで、話題の多かった「歳」「夫婦」という観点から、
メンバーのコメントを交えながら、忘年会の様子をご案内する。久々参加の森藤君、川庄君もいたが、
今回は遠路関西から出席してくれた田中(義一)君の乾杯の音頭で始まった。

       なんかしゃべっとったが、覚えとらん!

例年は、病気、家族(孫)、社会などの話が多かったが、今回は、年取ったという実感や、夫婦の
話題が多く、その話題を中心に報告しますが、近くの写真人物とコメントは全く別なので、そのつもりで。

    
  


会の途中ではあったが、古希が話題になった時、発言があり、「来年古希と言うが、実は本来は古希は
数え年で迎えるもので、それからすると我々はもう古希である」。ええーっ!、ムムム!
今年であろうが、来年であろうが、69歳が70歳になる事には変わりなし!




  
◆今思うと、サラリーマン生活は楽だった。決められたとおりにやっていれば、評価も受け生活できた。
 やる事が有った。だが、退職後年金生活になると「何もない」。自分のペースで出来る事をやらねば
 と思っている。
◆10歳上の兄が上京して1か月くらい居る。そしてしばらくすると、また来る。その世話も大変だが、
 10年後の自分を思い浮かべてしまう。
◆映画を楽しんでいるが、「クイーン」の映画は同時代として大変感銘を受けた。また12月27日に
 「おかえり、寅さん」があるので、是非見て欲しい。
◆女房とカラオケに行っている。脳の活性化には大変良いと言われている。
◆自分で設計(本来の設計ではないが)して、家を建て替えた。その間、近くの一間を借りて
 女房と二人で一間で5か月も暮らした。リロケーション・ダメージと言うか、若い頃も一間は有ったが、
 今女房と一間で暮らすというのは、、、、、、
◆女房とナイアガラの滝に行った。実はナイアガラの夢を見て、神のお告げがあったので実行した???。
◆主人と別れた!こんなに自由な気分になるとは、天国にいるようだ。

  
    

筆者:写真はいつも撮ってるが、しゃべる時じっとしてない者、逆光に立ってしまうもの、目を
   開けてしゃべらない者、色々居て、均一的な写真が私のカメラと技術では提供できないので
   悪いと思っている。出来るだけ元気な姿・顔を撮りたいので。
   最悪は筆者自身の写真。いつも誰かに頼むのだが、写りが悪く、修正するのが大変。
   まあ苦労しているので、写りに関してはご容赦頂きたい。
筆者:先日TVで、「卒婚」と言うのをやっていた。離婚はしないが、①同じ家に居て、家計は別、
   家事も別、部屋も別、子供もいる。②家で仕事を抱えているが、夫の転職で、職場が遠くなっ
   たので、夫は職場近くに部屋を借り、週末だけ戻ってくる。単身赴任とは少し違い、別生活では
   あるが、夫婦でもある。③上記①と同じ状態だが、夕食は家族一緒にする。などなど、色々な
   夫婦生活形態があり、既成、既存、昔風の夫婦という在り方を超えた考え方が有るのを知った。
   インタビューで数人の妻は「なんで離婚はしないのですか?」との質問に、「別に、好きで
   一緒になって、離婚する強い理由は見つからない」「今でも好きだが、生活の面倒を自分が
   全部見るのが辛く、楽になりたかった」「お互い自分の事は自分でやれば、それでも夫婦は成り立つ」
   男性は「すべて家事を女房に任せるのは、如何なものか、、、節度さえ持てば、自分は家族に迷惑
   かけず、好きな道を行ける」
   古い夫婦の姿は、夫が外で稼いで、妻がしっかり家を守るだったが、女性の自立、共稼ぎ
   などでの、所謂家事の重荷に耐えられない状況が垣間見えた。
   「離婚はしないが、結婚を卒業する」この方たちは我々より1世代2世代後の人達。
   60歳過ぎの熟年離婚の方々は、このような新しい考え方に至らず「離婚と言う選択しかなかった」
   とも思われる。別に卒婚に賛成する訳ではないが、この忘年会の後だったので、皆の発言を
   思い出しながら、考えさせられた。


                            閑話休題

◆最近は女房の手伝いを50%くらいしている。さっきから夫の立場、女房の立場など発言があるが、
 家事でもなんでも、
手伝う事に対価を求めてはいけない、求めると反感や問題が起こると思う。
◆主人は家の事を全部やってくれて、非常に楽ではあるが、なんか自分の領域を侵されているような
 気もする。話は別ですが、明星バリカタ濃厚とんこつラーメンは、インスタントとしては非常に
 美味しいと思います。今我が家で、流行ってます。
◆免許の自主返納をしました。
◆辺鄙なところに住んでいるので、車がないと生活が不便。絶対に今は返納しない。
◆妻とヨーロッパを旅行した。二人で事前に十分に計画して決めて行ったのに、ある国では女房は
 非常に喜んでいたが、ある国では期待外れで文句を言われた。この歳になっても考えが合わない
 事もあることを痛感した。



ここでいつもお世話になっている花羽のマスターに、いつも貸し切りでやって頂き、料金と時間、
そして来年の予約も受け就てくれた感謝・お礼とともに、一言挨拶を頂いた。
「この会で話されることは、私も昭和の人間なので、共感できることが沢山ある。若い人でここで
働いでくれる人が、なかなか見つからず、一人で何とかやってますが、来年も宜しくお願いいたします」


                        

         

               コメントに戻ろう

◆ 女房の家系は長命が多く、自分の家系は短命が多い。あまり悩まずに、色々な事に興味を持ち
  続け、楽天的に生きれば良いかなと思っている。
◆ 不動産業を手伝っているが、家賃の支払いが溜まっている年寄りの家を訪ねたら、脚が悪く
  動けない状態で、家賃を払いに行けない状態だった。
◆ 長年英語の教師を続けてきたが、最近の悪ガキに疲れて辞めた。たまには主人とは話すが、
  これからは通訳を目指す。

◆ 長年続けてきたスイミングを止めた。水に浸かるとなんか調子が良くない。浄化剤か浄化の
  方法の違いなのか、それとも年取った自分の免疫力の問題なのか、これからは毎日の朝歩き
  に専念する。
◆ カヌーでひっくり返って、起こそうと思ったが、よろけて膝をケガしてしまった。以前はこんな事
  なんでもなく出来たのだが、今度は本当に歳を感じてしまった。
◆ 孫とバルサ材を切り抜いて飛行機を作っている。最初はうまく飛ばなかった。

まだまだ沢山の発言があったが、ここでは省かせてもらう。実に楽しい集まりであった。
故郷や関西での、同級生での集まりでは、どんな話題で飲み・語り合っているのだろうか。
関東では、故郷とは環境や人々の考え方も違い、それに長年慣れてきた自分たちも、それをベースに
語り合う一方で、ふっと故郷が遠くなったような感じもする。このまま故郷に戻らずに、老いて行く
残りの人生で、何かの機会に、故郷、他の地方の同級生と語り合えたり、飲んで胸襟を開いたり、
HPで近況を知ることは、至極の喜びでもある。

令和2年も足音が聞こえるようになってきた。何も健康に心配ない健全体の者は少ないと思うが、
体調に十分に気を付けて、来年もまた邂逅を楽しもう。

   


    令和2年に向けて、皆元気で過ごしてくれ!


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街歩き:銀座・勝鬨橋・佃島
  2019年9月29日(土)

関東・東京のメンバーも、この地に住んでもう長くなる。しかし、東京は広い、一度も行ったことない場所が沢山ある。
今回も原幹事の入念な下調べのお陰で、初めて訪れた下町の風情を味わった。
実は、当初数人で「下見」をしてから、「本番」の予定であったが、本番当日参加できないメンバーから下見に参加したいとの意向もあり、
下見を兼ねての1回目、そして本番の2回目という変則的なプランになった。下見1回目には女性軍も参加して10名を超すにぎやかな
メンバーになったが、本番は男性軍7名で、それはそれで和気あいあいとした、楽しい散策となった。コースは1回目とは少し違うコース
を辿った。
この掲載は、下見も含めて掲載する。(下)と書いたものが「下見」、(本)と書いたものが、「本番」と理解してほしい。何もないものは、
一般的な説明とする。
メンバーは(敬称略)
下見:河合(木田)、飯田(広美)、篠塚、蔡、高本、高鍋、小島、多田、原、棚田、
本番:須河内、高本、小島、添田、福嶋、原、棚田

下見、本番共に、天気には恵まれた。有楽町駅で集合し、銀座をぶらつき、築地や本願寺へ向かう。(下)横文字の有名ブランドが入った
ビルを通り抜けるが、足早の原幹事を見失い、一時は探し回った。結局外で待っていた(笑い)。

      

(本)お上りさんのように、新しくなった銀座をキョロキョロしながら、原幹事の説明を受ける。真ん中の写真は、百田尚樹の「海賊とよばれた男」で、
世に知られた、出光の東京での最初の本拠地である。右隣が歌舞伎座。
小説の主人公で、「人間尊重」の哲学のもとで出光興産を創業し、出身地福岡の宗像大社の再興に大きな貢献をした人物としても知られる
出光佐三氏は、戦時の厳しい経営環境を乗り切るために昭和15年、会社の本社を創業地の門司から東京有楽町に移転します。
さらに昭和19年にこの地に本店を移転し、戦中、戦後の混乱期を社員とその家族と共に生きていきます。
屋上看板のアポロを観るとその内容を思い出します。

歌舞伎座の地下で休憩。ソフトクリーム???

   ここで、歌舞伎座について講釈
歌舞伎座は明治に建てられ、歴代建て替えられて現在がある。
外観は洋風でしたが、内部は日本風の檜づくりでした。
演劇のジャンルをそのまま劇場の名称としましたが、当時は市村座・新富座などのように座元の名前や地名をつけるのが
普通でしたので、歌舞伎座はその存在自体が大変斬新な劇場だったのです。

 
  
第1期 1907-1911     第2期 1911‐1921    幻の第3期(関東大震災で被害)  第3期 1925‐1945 

             
       第4期 1951‐2010             そして現在、後ろの白いビルも歌舞伎座の一部である。

(本)歌舞伎座の裏通りに、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが 足繁く通った喫茶店があると言うので、ちょっと寄り道して見に行った。

        
日曜日で休みだったが、細い階段を上って2階が喫茶店になっているらしい。会談には二人の写真などが飾られているとか、、
誰かが、ジョン・ヨーコとオノ・レノン とつぶやいたが、「?」と思ったが、違和感がなかったのが不思議である。

そういえば、ニュースで、今年のイギリスでのヒットチャートNo.1は、ビートルズの最後のアルバム、「アビーロード」だったという事
数10年を経て、ヒットチャートに返り咲くとは、ポール・マッカートニーも驚いていたらしい。ビートルズ、恐るべし。


数分歩くと、築地の本願寺に着く。(下)(本)

築地本願寺は、元々、1617年に浅草の横山町に京都・本願寺の別院として創建されていました。しかし、1657年の明暦の大火で
焼失してしまいます。
その後、幕府から八丁堀の沖が用地として与えられます。海ですのでそのままでは使えません。
そこで活躍したのが真宗門徒でもあった佃島漁民です。彼らが海を埋め立てて、土地を築いていきました(築地)。
こうして
1679年に築地本願寺として再建されます。
摂津からきた佃島漁民たちは、鉄砲州沖を埋め立てて佃島をつくり、
八丁堀沖を埋め立てて築地を造ったということになります。今は豊洲に移転しましたが、築地市場の基礎を作ったのも佃島漁民と
言えるかもしれません。
その後、築地本願寺は1923年の関東大震災で本堂を消失します。1934年に建築家でもあった帝国大学・
伊東忠太博士の設計による古代インド・アジア仏教様式の寺院として現在の地に再建されました。古代インド仏教様式を模した
特徴的な外観や本堂入口のステンドグラス、数多くの動物の彫刻などオリエンタルな雰囲気を感じさせます。

日本の寺院の中では特異な建築様式です。
中にはステンドグラス、パイプオルガン、礼拝堂には「チャペル」という札、等々、日本の
寺院とは思えない異様さが漂っている。有名人などの葬儀がよくニュースで流されるが、訪ねた(本)の時も葬儀が行われており、一体どんな
家族が執り行っているのか、興味深々だった。


  

   
     正面              天井          パイプオルガン          ステンドグラス

              
                   (本)正面石段で記念撮影

築地に向かう、大市場として名を馳せたが、豊洲に移転した後、市場の周りもさびれてきた。
シャッターを降ろした店舗などが目立つ。かつての人出溢れていた賑わいはなくなったが、それでも土日には外国人客などが訪れている。
雰囲気を写真(下)(本)で味わって下さい。


     

築地を抜けると正面に波除稲荷神社(なみよけ)がある。(下)(本)
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、
八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始め
られた江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等
と名附けられました。そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。
堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出して
みると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところが
それからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。
人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を
威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。それ以来今に至るまで、
「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。
その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。

   
鳥居を入ると、両脇に黒と赤の獅子頭が鎮座している。また築地市場の横にあったことから、色々な食材の塚が並べられている。
     
卵、魚、昆布、寿司、海老等の塚が並ぶが、一番右の吉野家の塚には驚いた。ここ築地は、なんとあの牛丼の吉野家の昭和初期の創業地だった。

そこから数分で勝鬨橋(かちどき)にでる。下見では橋の袂にある、かちどき橋資料館で、当時の映像などを楽しんだが、本番ではパスして別の場所に
向かう。この橋の袂は昔、海軍経理学校が有ったところで、その碑が立っている。筆者の親父が海軍経理学校での最後の海軍士官(後輩は終戦で
士官になれなかった)だったので、何度か訪れている。

勝鬨橋の袂から、墨田川岸沿いに歩き、聖ルカタワーに向かう。この近辺は江戸時代の外国人居留地があったらしく、かのペリーも再来日の時に
滞在していたらしい。あちこちに、★のマークや、東部13州を表す星条旗の石籠などが点在し、種々のキリスト系学校の発祥地でもあった碑があちこち
にある。1858(安政5)6月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・
フランスともそれぞれ締結しました(安政五カ国条約)。この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の
5港を開港し、江戸・大坂の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区と
して開港場・開市場の土地に設けられました。江戸(東京)の開市は、明治元年1119日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に
築地外国人居留地が設定されました。築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、
海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っています。
発祥・開設されたキリスト教系の
学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられています。
文教地区として大きな特徴を持っていた築地外国人居留地は、条約の改正によって明治32年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を
与えた一地区を形成していました。
(ここを発祥地とするキリスト教系学校は、立教学院、青山学院、明治学院、女子学院、双葉学園、
女子聖学院などです。
川岸から見た、対岸の「現代の月島、佃島」の様子など、写真で楽しんで下さい。

  

  



  

 

 

 
居留地跡の当時のガス灯                    居留地古地図

  

  

ここからは、佃大橋を渡り、昔の下町、佃島へ向かう。昔は下町情緒に溢れていたこの界隈も、上の写真で見るようにビルが立ち並び、その
ビルの合間に、かろうじて昔の下町を思い出させる街並みが残っている。
細い路地で向かい合った昔の長屋風情、その細い路地にある稲荷神社、今昔の写真で雰囲気を味わって下さい。

昔の写真
  

   
                                                   天安:下に現代の天安店の写真
現在の写真


     

   
細い路地にある地蔵尊は、その入り口に見える大きな木が、家屋の天井を突き抜けて、屋根一杯に枝を広げ、外からでも大きな木だと
いう事が分かる。左上の写真の広い通りで、年配の男性(江戸っ子、ひを発音できなくて、しと発音する)に会った。「俺たちの先祖は、
元々大阪から入ってきたんだ。この通りも昔は狭かったが、都がしろげて(広げて)しまったよ。戦災でもここだけは焼けずに、対岸は
夜でもしる(昼)のような明るさで燃えていたな。来年3年毎の、そこの住吉さんのお祭りがあるからよ、皆でまた来なよ!」


4時近くになったので、最終目的の「もんじゃ焼き」へ心が急ぐが、途中住吉神社に立ち寄る。

  
古い木造で、屋根の形が出雲大社か、伊勢神宮を思い起こさせる、などと素人談義をしていたら、誰かが、「ここに大浦がいたら
講釈がうるさいだろうな、、、」などとつぶやいて、皆が納得。 神社を後に「もんじゃ焼き」に向かう途中、中堀で住民が釣りを
楽しんでいる、のどかな風景に出会った。
 

そして、念願の「もんじゃ焼き。昔の「もんじゃ焼き通り」は新しく近代的になり、昔の情緒はどこにも見当たらない。
それでも、兎に角ビール!という事で店に突入。
下見の時は、女性軍の主導の基、もんじゃを焼き(焼き方がある)、ビールを楽しんだ。
最初に頼んだもんじゃは、博多明太子入り、チーズもんじゃ!

本番の時は、男性ばかりだが、下見で覚えた焼き方で、もちろん明太子入りチーズもんじゃ。
飲んで飲んで話して話して、満腹感での散会となった。

  
  

もんじゃでの談義風景は、焼く事、飲むこと、食べる事に気を取られ、下見、本番両方とも写真を忘れていた。

知らない東京を巡る街歩きも、回を重ね、また企画される。 知らない街で、友と食べ、飲むのも一興である。

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3月30日(土)に街歩きと筑志会を同時に開催し、昼1時半より夜9時までの長丁場であったが、原幹事の入念な下調べ、
説明、また趣向を変えた筑志会で、有意義な楽しい一日となった。 この掲載はちょっと長いが、筆者の勝手な紀行文の
ようにしたので時間有る毎に、順次、気軽に見てほしい。
                                 
街歩きと筑志会     
本稿、筑志会掲載の一番最後に、 この記事を見て名古屋の同窓生(女性)からの投稿を追加掲載しました。

少し春めいて来た関東だが、3月30日(土)は少し肌寒い曇りであった。 原君幹事の「街歩き」の集合場所 上野駅公園口に
早く着いた。ちょうど、満開の桜で、改札はごったがえし、歩くのも困難なほどの人出であった。 群れて咲く桜の下に、人も
群れる、外国人も群れる。
何時の頃からか、花を愛でる心より、そぞろ花を観て、飲んで騒いで春を満喫する為にのみ、人は群れる習性が出来てしま
ったのか。ゆらりと揺れる杯の酒面に、はらはらと舞い散る花びらを、、、、という日本人特有の風情は古代のものとなってし
まった感が強い。

       ともあれ、筑高の紋章を手にした原幹事と手伝いの高本君と協力して、筆者も参集してくる同級生を
       人ごみの中から見つけて、待ち合わせの場所まで導かなくてならない。
       目を皿ののようにして、改札口から流れ出る人顔を追っても、周りからの中国語、韓国語、タイ語、その他
       どこの言葉か分からない言語が、私の視野を遮っているような喧噪であった。


                          

何とか時間通りに全員集合できた。敬称略で、原、飯田(上野)、棚田、高本、河合(木田)、田中(昭)、吉原、
田邊、牛島、高鍋、高鍋夫人、須河内、添田、大坪(森田)、太田、小島、飯田(神子)、脇(小林)の総勢18名、
さあこれからが大変だ、人ごみの中で迷子にならないように、集団移動しなければならない。 
出発直後、案の定、数人が我々の流れではなく、人ごみの動く流れについて行ってしまって、慌てた。 
まずは、人ごみを避け、最初の訪問地

 

                   
上野寛永寺、開山堂へ向かう。

                  




上野公園の裏道に抜け、人通りが少なくなった道を、所々に咲く桜を観ながら寛永寺 開山堂へ向かう。山門をくぐると、
そこはこじんまりとした佇まいのお堂で、原幹事からの説明を受けた。(下記参照)
ひょいと横をみると、なんと、おみくじや絵馬をかけるところがあり、??? おみくじや絵馬は普通は神社、、、ここは寺、、
??? これも昔からの神仏融合なのか?おみくじは、ここに関わった慈眼大師・天海が始めた、、、という話も チラホラ
聞こえて来た。真疑の程は、どこかの碩学に譲る。

1.上野寛永寺 開山堂

徳川氏(松平氏)の菩提寺は三河国の大樹寺(浄土宗)であるが、江戸入りした徳川氏には、江戸にも
菩提寺が必要になった。家康は関東にあった増上寺(浄土宗)を1598年に芝に移転させ、芝増上寺
(三縁山広度院増上寺)として徳川氏の菩提寺とした。
一方、関東における天台宗の拠点として、
比叡山延暦寺と同格もしくはそれ以上の寺院を江戸に建立すべく、東叡山寛永寺を祈祷寺として上野に
建立した。京都御所の鬼門(北東)を守る比叡山同様、寛永寺は江戸城の鬼門の守りである。家康は
慈眼大師・天海を重用し、天海は幕府の宗教政策に深く関与することになる。寛永寺は参考の下表のように
4代家綱から増上寺と並んで徳川家の菩提寺となっている。
開山堂は天海が亡くなった翌年の1644年
創建。後に天海が尊崇していた慈恵大師・良源もお祀りしたお堂。1993年再建。

なお天海大僧正は「見立て」という思想で上野の山を設計した。寛永寺をはじめ様々なお堂を京都周辺に
ある神社仏閣に見立てて建立した。「寛永寺」という名称は「寛永」年間に創建されたことからつけられたが、
これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」を見立てたもの。

参考:徳川家霊廟   (●は短期間安置、*慶喜は谷中)

将軍代

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寛永寺

 

 

 

 

 

 

 

増上寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東照宮

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原幹事の説明によると、将軍の埋葬は上記のように分かれるが、奥方が一緒に眠っているわけではない。
ほとんどの場合、奥方は別の墓所に眠っている。 我々の場合は? 、、、いやいや 余計な事は考えない
ようにしよう、などと思いながら、開山堂を後にした。



早々に、次の訪問地 
清水観音堂
へ向かったが、上野公園を横切らねばならない。そこは、ざわめき、酒、そぞろ歩き、あらゆる人の群れの様相が
一面に覆いかぶさっているような雰囲気で、よく見ると満開の枝に目を向けている人はいない、かろうじてスマホ
で満開の枝々を撮っている姿がチラホラ。
「目を向けず、スマホで楽しむ 桜花」 かな? 川柳にもならない、、、、

          


                             最初に説明をしておこう。

                         清水観音堂

1631年建立。開山堂の項で記したように、天海の「見立て」により寛永寺境内には京の有名な寺院に
なぞらえた多くの寺院が建立されていたが、幕末(彰義隊)の戦乱でほとんどが焼失した。本院は残存する
貴重な寺院。京の清水寺から千手観音菩薩が奉納されたことに因み、清水寺と同じ舞台作り。
元禄初期に寛永寺根本中堂建設に伴い現地へ移設された。

  
                                        
   早速舞台に上がる                          舞台から下を見ても、人ごみと木々で不忍の池
                                        が見えない。(本来は見える)

確かに京都の清水寺を小さくしたような感じで、説によると、目の前の不忍の池は、琵琶湖を見立てているらしい。
やはり 昔の人は「京」を意識して、当時の関東と言う ある意味最果ての荒れ地を開墾した時には、「京」への
ノスタルジーを忘れられなかったようだ。我々のような九州人は「京」へは上る(のぼる)だが、関東へは下る(下る)
という寂寥の思いがあったのかも知れない。大宰府の道真公が「京」への思いを馳せたのも、栄華への寂寥の
思いだったのか?



     

 舞台の下に降りて、不忍の池近くで見上げると、このように見える。せっかくだから、人ごみを避けて
 皆で写真を撮る。 残念ながら撮影者(筆者)は写ってない、トホホ、、、まあ代わり映えしない顔だし、、、

ここから、不忍の池辨天堂に向かうのだが、琵琶湖に見立てているので、琵琶湖の竹生島のような
中の島にあり、そこに渡る道に、露店が並び、押し合い圧し合いの歩きとなった。ここもご多分に漏れず、
肩先が触れ合う人々はすべて外国語。両手を頭上に挙げてカメラを構えたら、横からドンと当たってきた!
同時に 「対不起!!」(ごめんなさい)の中国語。中国語で「大丈夫、そっちも気を付けて!」と中国語で
返したら、べらべらと中国語をしゃべりだしたので、「対不起 我的中文 还1点々」(私の中国語は、
まだまだです)と答えたら、怪訝な顔をされたので、頭上のカメラに専念することにした。
何故怪訝な顔をされたのか、未だに分からない。

筆者もいろいろな国を訪れ、文化に触れ、人になじみ、食も楽しみ、酒に浸って来たが、神道や仏教世界で
ある日本の「場」を訪れた、このような異邦人たちは、人と桜花の交じりあった喧噪のざわめきの果てに、
異郷の彼岸を見ているわけでもなく、此岸と彼岸の半ばの島で、自らが信じる神でもないものに手を合わせ、
ただただ日本人の流れに沿って観るもの聞くもの香るものをすべてを「日本」として、体のどこに仕舞い、
どのように自らの国に持ち帰るのか、グローバルという言葉の響きの中に安易に持ち込まれた民族性の
希薄さを憂いているのは私だけなのか。

閑話休題 小旅に戻ろう



    

     

こじんまりとした境内に、やっとの思いでたどり着き、境内の外れで一人こっそりと一服し、これ幸いにと筆者も
線香の煙を手で頭にかけたが、「これ以上頭が良くなって、どうする?」という思いと、
「これ以上頭も良くならないし、世間を煙に巻くしかないか、、、」 などと、人ごみの中、一人ごちて佇んでいた。

                  不忍池辨天堂

天海により天然の池であった不忍池を琵琶湖に「見立て」、不忍池を大きく造成し、元々あった聖天が
祀られた小さな島を竹生島に「見立て」、さらに島も大きく造成することで竹生島の「宝厳寺
(ほうごんじ)」に「見立て」たお堂を建立し、辯才天を祀っている。琵琶湖の竹生島に見立てられた
お堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたが、参詣者が増えるに伴い江戸時代に
橋が架けられた。昭和20年の空襲で一帯は消失したが、お堂は昭和33年に復興した。
現在は道路で陸続きとなっている。


ここから、対岸に向かい街へ出て、湯島天神に向かう。

                

                道すがら、人通りは相変わらずだが、両脇には満開の桜、晴天だと水面と空に
                映えて、淡い桜色が楽しめた事だろう。
                満開の桜の1本に、人だかり、、、というより 鳥だかり。写真をよく見てもらうと、
                枝々にたくさんの鳥がとまっている。下には大きめの鳩などの鳥。
                これが、色とりどりの語源か??? 冗談です。

 子供がえさをやっていた。それで合点がいった。一種のえさ場になっていた。時折、大きな白い鳥が舞い降りる。
 よく見ると、なんとカモメ! 海に近いせいか、東京湾でえさが少なくなってきたせいか、ジョナサンのように
 賢いカモメなのか、結構な数であった。

                  ここでも、やっと全員を見つけて、人の流れを避けながら記念写真。
                  疲れはまだ見えない、周りの誰も、古希前の集団とは思わないだろう。



          
 
                            湯島天神

458年創建。1478年太田道灌が再建。徳川家康も江戸入府後、社有地を寄進し手厚く保護した。
徳川幕府時代は東叡山寛永寺が別当を兼ねていた。
御祭神は「天之手力雄命(あめのたじからをの
みこと)」「菅原道真公」約300本の梅が植えられており名所。約8割が白梅。「泉鏡花」の
「婦系図」の映画、舞台、歌謡曲で「湯島の白梅」として有名。


  

  

                                      道真公の牛車を引いた牛か?         


 何度も訪れた事がある筆者も知らない、裏門から入る。さすが、大宰府のような壮大さはないが、それでも
多くの梅の木と、重くはないが、そこはかとした荘厳さが、道真公に由来するのか。本殿では結婚式をやっていて、
久しぶりの 文欽(金)高島田を見た。 神式の「しずしず」は、ウエディングドレスの「しずしず」とは違い、経年で
磨き抜かれた黒床を、神を奉るような厳かな歩みで進む。なぜか続く列席者も、神への畏れか敬意か、一様に
顔を俯けて、これも「しずしず」と進む。

ここで、しばらくの休憩に入るが、やはり博多人。露店で「梅枝餅」を探したが、残念 焼餅しかなかった。

       さて、だいぶ歩いたが、行程はまだまだ、これから神田方面に歩き、神田神社を訪れる。
          桜あり、裏通りあり、皆の足は衰えてないらしい。


   
                   

裏門もあったが、今度は回り込んで、正門から神田神社(関東人には 神田明神で親しまれている)に入る

                          神田明神

何度も来ているが、なにか明神さんが ケバケバしい。説明によると、古くなって塗り替えたらしい。古い明神さんを知って
いる筆者にとって、少し別物に思われた。外国人が多いのも、そのせいかもしれない。






     

                               上記 お囃子の写真をクリックすると、この時のお囃子が
                                    YouTubeで見て聞くことが出来ます。あまり、普段
                                    聞くことがないお囃子を聞いてみて下さい。戻る時は上部の
                                    左矢印で戻ってください。 

あでやかな着物姿、???? 着こなしがおかしい??? よく見ると 外人さんだった。レンタル着物。
悪くはないが、着付けをちゃんとしてほしいな。情緒が失われる。横では古式ゆかしいお囃子がなっているのに、、、

興味が薄れ、少し歩き回ると、この明神さんの 伽藍の曲線の重なりに改めて見取れてしまった。
今までは、このような感覚でここの伽藍を見たことがなかった事に気が付いた。

  

レンズのアングル、或いは見る角度によっては、なんでもないものが壮大にも見えるものだ。昔の宮大工の為せる業か。

神田明神は、730年、現在の千代田区大手町あたりに創建。太田道灌、北条氏綱等に
よって保護された。徳川家康が西軍との合戦(結果的には関ケ原が戦場)に臨む際、
当神社で戦勝祈願し勝利。1616年に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に
遷座し、幕府により社殿が造営された。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、
幕府をはじめ江戸庶民に至るまで篤い崇敬を受けた。明治時代に入り、社名を神田明神
から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」に定められた。
現在は神田、
日本橋、秋葉原、丸の内等東京の中心108町会の総氏神様。
御祭神は「大己貴
(おおなむちのみこと・大黒様)」「少彦名命(すくなひこなのみこと・恵比寿様)」
「平将門公」。

           あっ! もう一つ 面白いものを境内に見つけた


           

外人客が増えた事により、境内に貨幣交換所がある。これには驚いた。驚いた私が古いのか?今やお金を落として
くれる外人の参拝客無しではやってゆけないのか、それとも単なるサービス精神か?世の中変わるはずだ。
置いてきぼりをくったような感覚に陥る。
さて、これからも街歩きはまだ続く。これからお茶の水駅方面へ向かい、その周辺の、日ごろ気付かない場所を
巡る。

                                  
湯島聖堂

湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690年)、
五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。
この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。こののち、寛政9年(1797年)
11代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、官学としての威容も整った(学問所跡地は現在の
東京医科歯科大学や順天堂大学、病院等付近が相当する)。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が
徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされた。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていた
ものを黒漆塗りとした。現在のものは、大正12年(1923年)91日関東大震災により、罹災、入徳門・水屋を残し
全て焼失したのを、昭和10年(1935年)に再建したもの。復興聖堂はすべて寛政9年当時の旧聖堂に拠り、木造で
あったものを耐震耐火のため鉄筋コンクリート造りとした。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが
大正天皇に献上されていたものを御下賜された御物である。


なんて、説明聞いている余裕はなかった。1時半から歩き始めて、もう4時である。聖堂の門をくぐったとたん、4時で閉館です!
の一声。職員が あちこちの門を閉じている間、なんとか 正面から見ることが出来た。説明はゆっくり門を出た路上で、、、、


 

                 

                    聖橋
昭和2年(1927年)架設の震災復興橋の一つ。復興院橋梁課嘱託の山田守デザインの鋼とコンクリート
による大胆なアーチの造形が特徴で、震災後の東京の新名所となった。橋の名称は一般公募で決められ、
ニコライ堂(東京復活大聖堂)と湯島聖堂を結ぶ橋の意でつけられた。

何度となく上を通っているのだが、改めてこのような下からアーチを観る事はなかった。 
見とれて 写真を撮るのを忘れてしまった。


                

目の前は お茶の水駅、聖橋から見ると、大きな改修中。元国鉄・JRの幹部 原君からは説明を受けたが、JRとの
取り決めで、周知の目に触れる場には掲載しないということで、今回はご勘弁頂こう。筑志会参加メンバーだけの秘密。


                      ニコライ堂

この辺りを歩くと、よく目にする建物である。筆者の頭のイメージではニコライ堂と聖橋は対になっているくらい。
ロシア正教・ギリシャ正教などの話を交わしていると、メンバーの数人が、中に入ってみようということになった。
原幹事から「いいけど、中に入るのは、入場料を取られるよ!」との警告がなされた途端、横を通っていた
でっぷりとしたロシア人のご婦人から「ここは 入場料は取りません、ご寄付を頂くだけです、間違いないように」
と、きっちりと釘を刺された。 なるほど、言い方もあるものだと、痛く感心した筆者の横で、原君の苦笑い!
内部は写真禁止と言う事で、筆者は入らなかったが、見学してきたメンバーによると、やはり装飾など普通の
教会とは違う雰囲気であったらしい。特に十字架の形が違うのが印象的である。

   

紙面は問題ないので、ここで原幹事の精緻な案内書に記された、「休憩、、、、」の1文を掲載する。なんと歌である。

                       檸檬 さだまさし

或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて  君は陽溜まりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす  それを暫く
みつめた後できれいねと云った後で齧る 指のすきまから蒼い空に金糸雀色の風が舞う

食べかけの檸檬聖橋から放る 快速電車の赤い色がそれとすれ違う川面に波紋の拡がり数えたあと 
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ 遠くへ投げ上げるものよ


君はスクランブル交差点斜めに渡り乍ら不意に涙ぐんで まるでこの町は青春達の姥捨山みたいだという
ねエほらそこにもここにもかつて使い棄てられた
愛が落ちてる 時の流れという名の鳩が 舞い下りて
それをそれをついばんでいる
喰べかけの夢を聖橋から放る 各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
二人の波紋の拡がり数えたあと 小さな溜息混じりに振り返り消え去る時には こうして出来るだけ 
静かに堕ちていくものよ

なるほど、なるほど、!

と思いながら、原幹事についてゆくと、聖橋のたもとの、古木が茂るところで止まった。 えっ何これ???

  
               (いもあらい)稲荷神社跡

まずは説明、そして写真を見てもらおう。
江戸時代は太田姫稲荷神社(下記参照。当時は一口稲荷神社)が現御茶ノ水駅側のこの地に存在していたが、
昭和6年(1931年)に総武線を秋葉原駅から御茶ノ水駅に乗り入れさせるために現在地(千代田区神田
駿河台1丁目)に遷座した。
なお「いもあらい」とは「ゐも」(潰瘍の膿・血、尿の障害)を洗うの意であり、
転じて穢れや災いを洗い清めるとされた。

(参考)太田姫稲荷神社
1457年に、太田道灌によって創建されたと伝わる。創建当初は江戸城内に祀られていたようだが、
その後鬼門除けとして遷座。更に戸初期には江戸城の改築によりここに遷座、さらに昭和6年(1931年)に
現在の場所(上記)に遷座し、神田駿河台の氏神として崇められてきた。創建から江戸期までは
「一口(いもあらい)稲荷」と称していたが、明治に入り(1872年)現在の「太田姫稲荷神社」に改称された。
御祭神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、菅原道真公、徳川家康公」が合祀されている。
太田道灌の娘が天然痘に罹った際に、小野篁(おののたかむら)にまつわる逸話のある京都の一口稲荷神社が
天然痘に霊験があるという話を聞き一口稲荷神社で祈願したところ、天然痘が治癒したとのこと。太田道灌は
感謝し、一口稲荷神社の御分霊を勧請して創建したと伝わっている。
その後、小野篁の逸話で出てくる老翁(太田姫命)が白狐の姿で現れて「我この城の鬼門を守るべし」と告げ、
太田道灌はこれに従い江戸城の鬼門に遷座し「太田姫稲荷大明神」として祀ったと云われている。

 



なんと、史跡跡を示す、風雨に晒された木札が古木にかかっているだけである。
古木も木札も、長年幾多の風雨に耐えながら、このお茶の水の変遷を見つめ続けて来たのだろう。
由緒ある建物より、「歴史」を感じたのは、筆者だけであろうか?


お茶の水から、下り坂を降りて、万世橋方面に向かう。万世橋は近くにあの電気街秋葉原があるので、
割と耳にする名前だが、これから訪ねる 旧万世橋駅は全くの未知の世界であった。案内も、説明も
元国鉄・JRマンの原君の独壇場と言ったとこか。説明は後にする、まず写真を見てほしい。

                                
 旧万世橋駅



 

                                どちらも旧万世橋駅の絵である

     

左のレンガ橋が旧万世橋駅跡(ホームがあった)    今はガラスで囲われて保存されている旧万世橋駅
                                  ホームから、中央線東京行きをま近かに見る。
       

 

正面は秋葉原、手前が旧ホーム跡(今は引き込み線    秋葉原側から見た、旧ホーム跡。今は下にしゃれた店舗が入り、若人も
に使われている) ここから見える往時の風景は       訪れている。
最初の絵図からも想像できる。
     

                       旧万世橋駅
かつて甲武鉄道が1889年(明治22年)立川~ 新宿間を開通させ、都心への延伸を進めていたが、
甲武鉄道は1906年(明治39年)国有化された。1912年(明治45年)中央本線は万世橋駅までの
営業を開始したが、初代の万世橋駅舎は豪華であった。東京駅と同様に辰野金吾の設計による
赤煉瓦造りで、一等・二等待合室、食堂、バー、会議室等を備えていた。また、貨物用の
エレベーターも整備されていた。中央本線のターミナルとしてだけでなく、ここから両国駅方面
への総武線の敷設計画をも見据えたものであった。駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である
広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。東京市電が走り、多くの人で賑わった。大正時代に最盛期を
迎えた。しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。1919年(大正8年)万世橋駅 ~ 東京駅が開通。
中央本線の起終点としての役目は7年で終わった。同年、神田駅が開業。1925年(大正14年)には、
上野・神田間の高架線が完成。秋葉原駅が営業を始めた。

と言う事で、ここが街歩きの終点。昼1時半から歩いて、今は5時前。皆の健脚には驚かされる。
原君の入念な下調べと、妙を得た説明のお陰で、またまた東京の知らない部分と歴史を垣間見ることが出来た。

筑志会会場まで、あと15分ほどの道のり。 ビールが旨いだろうな。つい急ぎ足になる。





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                          筑志会  神田花羽(みちば)にて

街歩きに続き、会場へたどり着いた。メンバーが少し変わる。街歩きに参加した田中(昭)君と牛島君が用事があり、
参加できず、街歩きに参加しなかった三宅君が加わった17名で始める。
最初に断っておきたい。今回は、久し振りの小島君、街歩きに参加してない三宅君、参加はしたが、写真班で顔が
写ってない筆者以外の顔写真は掲載しない。またいつもの近況報告も、久し振りの小島君以外は、基本は無し。
全員写真も無し。
それに代わって、故郷や博多弁について大いに意見・考えを交わしながら飲もうと言うことになった。

まずは原君の乾杯の音頭で開始! 歩きと見知った歴史の興味で、ビールが期待以上に旨い。





                しばらくの歓談の後、久し振りの小島君の挨拶

            

久し振りに戻ってきました。波留美会には参加していたのですが、10年くらい前が最後でした。60歳で定年になり
福岡 大宰府都府楼に戻り40年間面倒見なかった母の世話をするために住むようになった。美味しいものや、色々な
ところを尋ね楽しみました。子供たち3人が皆関東で、孫が出来て、家内が3年前孫の世話の為に船橋へ戻り、福岡
では私は単身赴任のような生活をしておりました。孫の世話が大変で、私も船橋に来いという家内の頼みに、どうしても
断り切れず船橋へ再移住することになりました。母も3年前に亡くなり、3回忌も済ませたので、関東へ移り子供や孫
たちとの生活と言う事で関東にまたやって来ました。福岡での10年間、あちらでも色々な集まりが企画されていたが、
本当は参加したかったのですが、義理の兄の仕事を手伝っていた関係で、なかなか参加できずにいました。1月に
引っ越したのですが、福岡では家内が居ないので、なにからなにまで全部一人でやって大変でした。2月は船橋で
引っ越した後の整理が大変で、3月になってやっと落ち着きました。そこで街歩きと言う事で、久し振りに参加しようと
思い、参加して楽しい日を過ごしました。10年振りでしたが、いろいろ思い出す顔と思い出さない顔があり(笑)、
これからはまた参加させてもらいますので、宜しくお願いします。


特別近況報告

大坪さん:囲碁の8級の認定書をもらいました。(拍手)更なる昇級を目指して頑張ります。
脇さん:
2月に人類の故郷 エジプトに行ってきました。皆さん是非行ってみてください。


            また、しばらくの歓談のあと、幹事から意見交換の提議があった。

(1)故郷について
   所謂譜代・親藩・外様などとの論議がある。
   定義:譜代ーずっと博多に定住している同窓生
      親藩ー博多以外に定住しているが、親兄弟が博多に居て、家もあり、
         行ったり来たりしている同窓生
      外様ー博多以外に定住して、親も家も博多にないとか、たまにしか
         博多に帰らない同窓生。
   関東組は、関東定住者などが多く、博多の譜代或いは親藩とは故郷の感じ方が違う。
   関東定住者が(親が福岡に居る、居ないでも違う)、たまに福岡・博多に
   帰って、何を感じるか。外様は故郷のあまりの変りぶりに驚くが、譜代には
   日常の事なので、そんなに感じてない。親藩は折に触れ帰福するので、変容を
   徐々には感じている。外様である幹事も、あまりに変わった故郷に落胆する事も
   多いが、それだけに、同級生らを交えた往時の故郷に強烈なノスタルジーを感じる。
   また、墓の問題も良く耳にする。昨年の高山君の話(故郷納税で墓守を委託する)
   のように、親の墓を誰が見るのか、自分の墓は福岡にするのか、等々諸問題に
   ぶち当たる。
   皆の思いは?

(2)博多弁について
   最近の博多の若者のしゃべる博多弁は、我らが時代のそれとはだいぶ違う。
   所謂「方言」とは違い、博多弁は我々の言語である。ずっと前の同窓会で、
   木田さんが「東京であっても、同窓会なのに、なんで皆博多弁ば、しゃべらんと?」
   と言ったのを私は強烈に覚えている。東京で居ると、急に博多弁ばしゃべれ!と
   言われても、急に上手くはしゃべれない。でも故郷に帰れば普通に我らが時代の
   博多弁ならしゃべれる。先日5組の本嶋君が東京に来て、新橋で飲んだ。
   20年振りではあったが、最初から違和感なく当時のままの博多弁で気持ちよく
   飲んだ。皆さんの博多弁に対する 一家言を聞きたい。


以下、談義として、発言を順不同でまとめて掲載します。


故郷を捨てたわけではない。福岡でずっと暮らせるなら、絶対それがいいに決まっている。

就職の問題で、福岡を離れざるを得なかった。ある意味、暫定定期に親を捨てた

ということになるが、捨てる必要もなか。言葉で言うと、違う土地にきて博多弁は使えん。

その土地の言葉に馴染まねばならない。思うに唯一どこに行っても変わらないのが関西弁。

ずっと福岡居れてずっと博多弁をしゃべっていられるのは幸せだと思うちゃんね。うらやましかよ。俺たちが居た頃は
60万人くらいの都市やったが、今や大都市になりマンションも乱立し、板付、いや福岡空港に降り立つときの空からの
風景を見ると、なんか別の都市に来たように感じるもんね。まるで東京から東京に来たごとある。俺たちの時代の福岡
はもうない!何十年か前に福岡を捨てたこのメンバーは、あの当時の福岡・博多が懐かしいったい。だから、譜代・
親藩の人たちの価値観と外様の価値観は違っても仕方なかと思う。


今は外様の意見だが、行き来している親藩はどうなのだろう? 

 40代の時は博多駅に着くと、博多弁がビンビン聞こえてきて、懐かしかった。50代の頃は あれ!と思うようになったが、
最近は???の事が多い。大牟田線に乗っても博多弁が聞こえてこない。しかし博多の匂いはする。(帰巣本能がある
シャケみたいなもんたい:笑い)飛行機から志賀島が見えたら「帰って来たな」という感じがするし、街に出るとやはり
懐かしいものが沢山ある。(いろいろ ラーメン、うどん談義が続く)

 さっきのお墓の件だけど、近くに買えばいいじゃん! (一刀両断!のご意見)

我々の世代では、やはり出稼ぎというか、故郷を離れて働いているところが拠点になる人が多いので、
やはりお墓をどうするかという問題がよく話題になる。子供たちは東京育ち、お父さんの墓は故郷にある、「俺は
故郷の墓は守るからな!」と力強く言っても、子供たちは「????」「墓守ってどうするの?」という反応。
ご先祖さまは大事だが、「今」のほうがもっと大事という考え方のようだ。
(お寺の檀家として、いや私の場合は市の霊園、永代供養 等々の談義が続く) 

今までは男性中心の話のようだが、嫁いだ先の家の件も抱える女性の考えはどうだろう?

私の主人の家の墓は近くにあるし、実家の墓は長兄の家の近くにある。私はそんなに信心深くないので、
墓(骨)ってしょせん物じゃない。合祀したって良いと思っている。長男の主人の家墓も、維持管理は一緒
にしているが、「う~~ん」と思うこともある。そこに行って落ち着くということがあるなら、それはそれでよいと
思うが、亡くなった人を思うなら、別に墓でなくても別のもの、心の中で思うことも出来ると思う。さっきの
故郷納税で代々墓をきれいにしてもらっても、ご先祖様は喜ぶのかな?と思う。私はそういう感覚でいる。
えっ? ああ、私の入る場所はちゃんとあるよ。(いやいや、旦那と一緒でいいのか?と聞いている :笑い)
(お前の場合は、奥さんのほうが一緒に入るのを断ると思うよ:笑い)

しょせん人間なんて100年くらいしか生きないので、100年経ったら私の存在なんて知っている人もいない
だろうし、骨があるからと言って、語り続けられるような人間でもないし、お墓に対する気持ちはそれぞれで、
私は心の中にあればいいのかなと思っている。

貴方色々言っているけど、そう思わない?(全く同意します。俺の場合は墓がないんだよ)
(えっ!儚い<はかない>話だな!:拍手)

女性にとって、故郷とは? 

やっぱり懐かしいよ。10年くらい前に帰った時、天神で迷ったもんね。昔の岩田屋の地下なんか全く分からん。
私らが知っているのは50年前の博多よ。路面電車もあったし。筑肥線も地下鉄に変わったし、、、。

(野間の交差点の話、平尾の話、今まで話題にならなかった同窓生の近況など、いろいろと談義が続く)

やはり、外様にとっての故郷博多・博多弁は50年まえの博多なのか?掲載はしてないが、面白い話、興味ある
話など、いつになく談義はあちこちで満開であった。いつも写真撮影、録音などで、あたふたしている筆者(幹事)
も久し振り飲みながら談義に加わることが出来て、楽しかった。また改めて街歩き幹事の原君への感謝を
表明しておきます。


                      名古屋からの投稿 

街歩きと筑志会を見て、名古屋の同窓生(女性)が投稿してくれました。このページに関連するので、
このページに掲載します。 


桜満開です。

330日(土)築志会「故郷・博多弁・・・」に目を通して、しみじみ思うこと多し。

「親藩と外様」は譜代に比べてカルチャーショックを沢山味わってきたと思う。

50年前の福岡は凄く「田舎」で関東・関西を含む日本中で知名度が無かったし、肩身が狭かった~!

福岡・博多では「自分の街」で大手を振って歩けるのに、都会では「人様の土地にお邪魔してる」感覚でした。

そこを乗り越えて「今」が有るのでは?

「博多弁」では通じず恥ずかしかったり不便なことも多々ありました。

だって「共通語」と思っていた言葉が、何と「博多弁と言う方言」だったのですから⇒通じない(驚!)

タモリが名古屋を馬鹿にしたような発言をしていた頃、名古屋に来ました。

其の頃はタモリも博多弁を喋ってなかった!

まだ「博多」の認識はとても薄く低かったと思う。

50年前、都会にカルチャーショックを受け切磋琢磨して生き抜いてきて、

いま博多に帰ると軽いカルチャーショックを感じるのが「親藩と外様」特に「外様」なのではないかしら?

譜代や親藩の人たち、関東組に羨ましさを覚えます。

何故って・・・いつでも故郷・福岡の話で盛り上がれるから!

でもポツンと名古屋に居ても思うことは

『大好きな懐かしい故郷・博多がある。

博多・関東・関西の同級生の消息が分かること。

チャンスさえ作れば顔が見れること。

それに長く住んでる名古屋も大好きで沢山の友人が居ること。

子供たちは名古屋生まれ名古屋育ちですが「母親の博多育ち」を誇りに思ってくれていること。

さして広くない日本に、博多(福岡)と名古屋の二箇所に、自分の心の居場所が有ること』

現在外様の私にとって博多・福岡は青春を捧げたビートルズのような存在?

解散してジョン・ジョージは亡くなって実在してなくても「私のビートルズ」は永遠!

38歳と42歳の息子が「最近の若いやつの名古屋弁はおかしい?」と・・・

今の博多弁も変化してる?

でも私たちの喋っている博多弁は普遍です。

今日も中学の同窓生と電話で喋ったら「ばりばり博多弁!!!」

おまけ:「令和」の由来の万葉集と言うことで騒がれている坂本八幡宮は実家の裏で~す!!

              投稿ありがとう。

全員写真は撮らなかったが、恒例の棚田君の応援エールで閉会としました。
ちょっと掲載も長丁場だったが、譜代・親藩、そして参加できなかった外様の同級生にも
関東組の雰囲気が伝わればとの思いです。









  新年早々の、「浦賀ペリーと三浦半島散策」

二年越しで前々から構想を練りに練っていた吉原企画「浦賀ペリーと三浦半島散策」が1/26(土)ついに実現した。
参加者には事前に下見をした吉原君お薦めの計画がメールにて配信されていたので、皆さん品川以南の京急の駅でお得な
「マグロ切符(品川から3,500円)」を購入していた。(元JRの原君も京急のお得感に負けたと絶賛)


                      

10:00に京急久里浜駅へ11名(飯田ひ、飯田ま、河合、太田、須賀内、添田、高本、原、鳩宿、福嶋、吉原)が10分前には集合した。
そこで幹事からペリー来航近代史と三浦半島形成史なる資料が配布される。一行は、20分歩いてペリー記念館へと向かう。
途中の路面には、蒸気船を象ったタイルが埋め込んであり、これが記念館への道順となっていた。
ここで30分間、館の無料見学と公園や港を見学する。「泰平の眠りを覚ますじょうきせん、たった四はいで夜も寝られず」
(4隻の黒船に民衆は大変驚き上喜撰(お茶の銘柄)にかけた当時の狂歌)と読まれて200年の鎖国に終止符を打つことになった。
ここで高鍋君が見事な勘働きで突如登場。皆がヤンヤの歓待。(さすが経営者は先が読めている。)

                           
                      
駅まで戻った一行は、再び京急で三崎口駅を目指す。駅のホームで吉原君が秘めていた女子力を発揮。昼食時間が14:00頃に
なるのを見越して、「一口アップルパイ」を用意していて参加者に配布。これには皆さん感激の舌鼓、3月の街歩き幹事の原君が
(ここまでするのか!参考にしよう。)と感心しきり。10分程で三崎口駅に着いて、城ヶ島行きのバス停に並ぶ。駅前はみごとに
何も無い。25分ほどバスに乗った後、白秋碑バス停にて降り、城ヶ島公園ウミウ生息地(遠くにウミウが並んで岩場に止まって
いるのが見えた)を横目に観ながら海岸線を歩く。さらに15分ほど行き、やがて階段を下りて9万年前の隆起でできた海蝕洞穴
「馬の背洞門」にたどり着く。
いやいやいや見事なものがあったんですね、とっても感激です。来てよかったなと思った瞬
間でした。勿論、みんなで記念撮影しました。

   
   
 
砂状の岩肌があったので触っていると、吉原君がやって来て、タモリ並みの地質学の解説「凝灰質砂礫岩である。」と解説が始まった。
(よう勉強しとるなぁ。)
一行は、城ヶ島公園へと戻り、展望台から澄んだ青空の下、千葉方面や伊豆半島方面の眺めを満喫する。伊豆方面は雨模様の雲が
かかり始めていたので、先を急ぐことにした。
ここから下に白秋の石碑を観ながら有料道路を渡り、約2.1kmを歩いて三崎港の食事処「庄和丸」に到着。実に15,000歩のウォーキング
だった。いつも3,000歩しか歩かないという須加内君も完走である。皆さん素晴らしい健脚揃いである。
ここで一番のメインイベント、三崎マグロ御膳(マグロ切符に〃まんぷく券〃として付いている)を味わいながら、一杯の酒と共に学生
時代の話、今の生活の話題、次の街歩きの算段等々話題は尽きなかったが、土産割引券〃も付いていたので、各々家への土産を
物色する「うらりマルシェ・さかな館」に移動した。帰りは、目の前のバス停から三崎口駅に戻り、京急にて燦々午後、疲れのままに
皆々舟をこぎながら散会となった。
                     
              

ひとりで下見から資料作り、食事の予約や会計までやってくれた吉原幹事に感謝である。皆さん満足、満腹の一日で、
お疲れさんでした。(幹事さんが一番疲れたかな?)
(2019.01.29 福嶋記)

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